私は同じクリニックのリハビリテーション施設で、メンバーの方と一緒に短歌や俳句を作っています。その経緯もあって、現代短歌の歌人である穂村弘さんの『はじめての短歌』を読み直しました。
短歌をあまり作ったことのない私でも、するする読め、また短歌の魅力も教えてもらえる本でした。もともとは、社会人の方向けに行われた短歌講座を書籍にしたもののようです。
穂村さんは本書の中で、短歌の言葉遣いがどのような効果が示されているかを丁寧に取り上げておられます。
この『はじめての短歌』の冒頭で、穂村さんは、短歌を作るうえで着目することとして、人の生活を二つに分けています。曰く「生きのびる」ことと、「生きる」こと。「生きのびる」ことは、人やものが社会の中でいかに役に立っていて、どんなに有用であるか、そういうことのようです。それが人にとって重要なことであることは、もちろん言うまでもありません。
しかし、生活のなかにはそれだけではない部分というものがある、と言うのです。何かの役に立ったり、お金が稼げたりすることではない部分。それを穂村さんは「生きる」という言葉で表しています。そしてその部分が短歌になる、ということのようです。
例えば、この本では盛田志保子さんの作った短歌が紹介されています。
「雨だから迎えに来てって言ったのに傘も差さず裸足で来やがって」
穂村さんは、この「来やがって」は怒っているのではなく感動している、と読み解いています。「雨だから迎えに来て」という言葉の中には、「傘を持ってきて」という期待が含まれていて、それを読み取って傘を持ってきてくれることが「有用」で「役に立つ」わけですね。しかし、迎えにきて、と言われて傘も差さずに裸足で迎えにきてしまっている誰かさんがいるわけです。この誰かさんの、役に立たないし、有能でもない、でも愛すべき「生きる」に感動している短歌だ、ということになります。
この生活の「生きる」部分は、またもう一つ「生きのびる」と異なるところがあるそうです。それは、「生きのびる」部分は交代することができる、ということです。例えば社会的な役割である「課長である」ことは、「課長代理」を立てることができます。「役に立つ」ことだから、同じくらい役に立つものがあれば、それで代理することができるわけですね。
しかし人間の生活には交代できないところもあって、例えば「夫である」ことや「家族である」ことは交代することができません。これが「生きる」。人は生活の「生きのびる」部分を必要としているけれど、それ以外の「生きる」部分もまた必要としている、と説明されています。
穂村さんが生活から取り出した短歌と関わる部分「生きる」は、ドゥルーズという哲学者が哲学史のなかから取り上げた、「此(これ)性」という考え方にとても近いのではないかな、と思います。
社会思想史を専門にされている澤野雅樹さんは、「此(これ)性」について本の中でこんな風に説明されています。
「お腹が空いたとき、私たちは自然に『好物』という食物における此性との出会いを求める。そして、私たちが大好物を口にして、『そう、これだよ、これ!』と言うとき、そのときこそ、まさしく『此性』を経験している。」
澤野雅樹『ドゥルーズを活用する』p.20
単に空腹を満たす・栄養素を摂取するという目的に限れば、条件を満たすどんな食べ物であってもかまわないことになります。しかしどこかのところで、人は「これだよ、これ!」と感じるような体験を求めてもいる、と言えるのでしょうか。
穂村さんはこの本の中で書いておられたことは、この「これだよ、これ!」という感じをどうつかまえるか、ということなのかなと想像しました。
カウンセリングにいらっしゃる方々のお悩みは、もちろん「生きのびる」ことに強く関わっているものが多いと考えられますが、同時に「これだよ、これ!」という「生きる」手ごたえを確かめにいらしてもいるのかもしれないと感じています。(T)