Blog:イメージと箱庭

心理療法の技法のなかに、「箱庭療法」というものがあります。砂の入った箱のうえに木や人間、動物のミニチュアを置き、箱庭を作りながら、セラピストと対話していくものです。日本では河合隼雄先生が広めたため、どこかでご覧になったことのある方もいらっしゃるかもしれません。
一方で、箱庭が心理療法のなかでいったいどんな役割を担っているのか、ということは十分に知られていないかもしれません。そこで今回は、私なりに箱庭療法の役割について考えてみたいと思います。

心理療法と言葉

心理療法やカウンセリングの場面では、主に使われる道具は「言葉」であると思います。自分の心をカウンセラーに伝える時、人は当然言葉を用いなくてはなりません。つまり言葉というものを仲立ちにして、思いを相手に理解してもらおうとしますし、カウンセラーは言葉を足掛かりに来談者さんの気持ちを受け取ろうとします。

しかし、心理療法の場面での言葉のはたらきはこのような「伝達」だけではありません。もう一つのはたらきとして、自分の心を自身で感じ取るための仲立ちの役割がありそうです。(このような自身で感じる心の手ごたえを、試みに平仮名で「こころ」と呼んでみましょう。)

自分の「こころ」というものは、自分のものだからわかりやすいようでいて、同時にとてもわかりにくいものだということも言えます。「こころ」は目に見えませんし、ふわふわ、もやもやしていて、はっきりとした形をもっていません。そこで言葉という形を与えることで初めて、手応えをもって扱うことができるということが多々あります。

みなさんのなかにも、人と話をされていて、気持ちを口に出して初めて自分の心のなかにそんな気持ちがあったのだと気づくという経験をされたかたがいらっしゃるのではないでしょうか。「こんなことがあって腹が立ったのよねえ、いや、悲しかったのかもしれない」と言葉にすることを通して、自分のなかに悲しみがあることに気づくこともある、というように。

言葉とイメージ

さて、言葉には、このような「こころ」の手ごたえを知るという働きがあるわけですが、「悲しい」「怒る」「不安」などの感情語だけで、自分の気持ちを確認することには限界があります。「悲しい」と一言で言っても、絶望的な悲しさもあれば、怒りを含んだ悲しみもあるでしょうし、拗ねている気持ちが混ざっているものもあります。感情の複雑さ、その細やかなニュアンスは、感情を説明する言葉だけで映し出すことは難しいのでしょう。

そこで人は「たとえ」を使って自分の気持ちを表そうとします。「疲れている」ことを「さんざん歩き古したぼろぼろの靴みたいな気分」とたとえたならば、単に疲れているというよりもその気分の細かい部分までが映し出されるように思われます。この「たとえ」はイメージにつながっていきます。イメージは、説明の言葉だけではつかめないニュアンスを、手応えをもって映し出すことを可能にします。

何よりも、芸術作品、小説や絵画、音楽などが人を感動させるのは、作品に含まれているさまざまなイメージが、多くの人の「こころ」を映し出すはたらきをもっているからではないでしょうか。たとえば小説のなかでは、ストーリーの展開だけではなく、風景の描写が登場人物のこころを映す鏡として描かれることもあります。バーネット『秘密の花園』という児童文学作品では、適切な養育をされず荒れ、病んでしまった主人公の心が、舞台となる荒れ地や荒れ果てた庭園に、そして庭園が再び美しさを取り戻していく過程が主人公の「こころ」の回復を表すように描かれています。イメージを作り出す働きは、「こころ」を映し出し、手応えのあるものにしてくれるのです。

しかしイメージはゼロから作り出すことの難しいものです。画家や小説家のような特殊な能力が必要で、自分ではとても出来ないと感じる方もいらっしゃるでしょう。

その際、箱庭がゼロからではなく、形のある人形などのものを使うこと、そして手で触れるものである、ということがイメージを呼び起こす手伝いをしてくれます。箱庭のなかに入っている砂の手触り、ひとつひとつの人形・ミニチュアの表情やポーズ、質感が、イメージを呼び起こし、またイメージの力が安全に働くことを助けてくれるのです。

また、箱庭を作るということに「ちょっと遊んでいるような」感じがあることも大事な要素と言えます。イメージの力はそのような守られた伸びやかさの中で働きやすいからです。守られた場でイメージと遊ぶことを通して、自分自身の「こころ」に触れ、自分の中にあるものを安全に表現することができるということが、箱庭療法の利点であり魅力でもあるといえます。

当カウンセリングルームにも箱庭があります。ご興味があれば是非お声をかけてみてください。(T)